嵯峨の百人一首がいつできたか。藤原定家が作ったということは知っている。藤原だし、平安時代かなと思っていたけど、鎌倉時代らしい。3代将軍実朝が、亡くなった後。
後鳥羽上皇も主人公の一人。後白河の孫。安徳天皇が3種の神器とともに今日から逃げて、4歳の時に天皇になった。宝剣を持たない初の天王。その後子供に譲位して20歳くらいで院に。文化が好きで、和歌もすごく脚光を浴びたらしい。
でも、周りが見えてなかったのかな。源に対抗しようとしてというか、また天皇中心にしようとして、乱を起こして、隠岐に流された。
我こそは新島守よ隠岐の海 荒き波風心してふけ(にひじまもり なみかぜ)
傲慢知己な後鳥羽ぽい詠みかただなーって思った。
歌人に花を持たせたい、地位を高めたいという定家も輝いた時代だった。鎌倉へも歌を教えて、繋がっていたから、力もあった。
そして、関東の豪族である息子の舅の家の襖を飾るように選んだんだ歌らしい。
見てみたかったな。伝統を考えてしまう今日では無く関東の人だったから今までにない障子になったのかな。
2022/2/10-2022/2/19